森田の青い空


 長い暗闇を抜けて見る空は格別だ。
 今この瞬間だけは誰にも邪魔されない。

「森田ッ! おい!」

「……………まだ、ですっ…げほっ!」

 そうして漸く吸った空気を胸いっぱいに満たしている森田に、無粋な声が割り込む。
 下は見なくても判る。恐らくは親方が降りてこいと喚いているのだろう。きっちり1時間すると声をかけてくる親方が判りやすくて思わず笑いが出る。
 けれどもう少しこの時間を堪能したい。煙突掃除のあとの景色だけは金では買えないと思うのだ。
 わざとらしい咳をして、森田は目の前に広がる青と、橙色の街を見下ろして森田は微笑んだ。

「ん……羽…?」

 見上げるが、空には鳥の一匹も飛んでいる様子はない。そこには一面の青空が広がるばかりだ。
 今の森田は鳥の翼さえ眩しい。僅かな金で買われた自分に自由はほぼないと言ってもいいのだから。

「森田ッ! おい! 聞いてんのか!」

「…終わりました…すぐに降ります!」

 導かれるようにして空から舞い落ちてきた真白のそれが天使からの贈り物に思えて、森田はその羽をそっとジャケットのポケットに押し込んだ。
 今日は何だかいい日になりそうだ、と。



*  *  *



「う、わっ!」

「森田、お前またやってくれたようだなぁ」

 寝て居る所にびしゃりと冷たさを感じて、森田は一瞬で眠りの縁から飛び起きた。

「何だッ」

「おはよう、か? 今はまだ夜の11時のこれからだけどな」

「ぐっ…! お前…!」

「あ? あーあー……疲れてるお前に水でも持ってきてやろうかと思ったんだが手が滑ってな」

 目を向けなくても判る。己の服とベッド。
 悪意を持ってかけられた水は森田の服を濡らし、シャツはおろかズボンまで飛び散っている。
 唯一体を休めることができる場所と言ってもいい簡素なベッドも水で使い物にならない。

 ベッドに至っては水をかけられたことで藁はぐんぐんと水分を吸い、一日か二日、日当たりのよい所で乾かさないと使い物にはならないだろう。
 藁を敷いてその上に布を敷いただけのものだけれど、それでもベッド代わりにはなっていたのに。

「悪いな、森田」

「面白いかッ、西条!」

「面白いさ、お前が困る姿を見るのはな。…にしても、雇い主の息子様を呼び捨てとは感心しないぜ…?」

 にやにやとした人の悪い笑顔を西条の顔から見て取った森田は顔色を変えた。
 この手の顔をしている時の西条は、十中八九悪巧みをしている時だ。
 西条は森田が檻に入れられ、そちらに手が出せないことを知っていてふっかけてくることは嫌というほど知っている。
 母親を唆した飯抜きか、父親に嘘をついて森田を張っ倒させるのか。どちらにせよ森田の目は良くない。

「でも可哀相な森田に…ほらよっ」

「こ、れは・・・?」

 西条が胸元から取り出し、森田に放り投げた物。
 それは森田でも知っているブランドの物で、煙突掃除を一年して手に入れられるかどうかというような、いかにも高そうな財布だった。

「どういうつもりだ…!」

 西条が森田に善意で何かをするはずがない。これはなにかある。恐らくは森田にマイナスにしか働かないものだ。
 森田は中を見ることもせず、西条の足元へ黒川のそれを放り投げた。

「お前からの物はもらわねぇっ!」

「ふーん…まぁ、それでもいいけど」

 またしても西条はにやにやとして、森田の居城である寝床に背を向けた。

「おいっ、財布…!」

 森田が西条に放って投げた財布は板張りの廊下に寂しく転がっている。
 西条はそれに一瞥をくれ、森田の方を見やって笑った。お前は何処までもお人よしだな、と。

 西条が森田の前から去ってから数分、柵の前には親方が立っていた。顔は見るまでもない、憤怒の形相だ。
 廊下に放り投げられていた財布を拾い、服を乾かそうとしていた森田を檻から引きずり出して睨みつける。
 拳は固く握り締められ、血管が浮いている。あれで顔を殴られれば、数日は腫れ上がったままだろう。
 そうなれば、掃除仲間の幸雄にまた心配をかけることになるなと森田は遠くで思った。

「お前…自分が何をしたか判っているな…?」

「……………」

 森田は答えない。
 何を言っても、今の親方には無駄だろう。聞く耳を持たない。
 恐妻家であり、あのロクデナシの息子を溺愛している男だ。妻と息子の言ったことは全て真実だと思い込んで居る節がある。森田が黒を白だと言ったところで、何も変わらないだろう。

「わしの財布をいつ取った…」

 怒りを込めた声で聞かれても知るわけがない。
 その財布はお前の息子が持ってきたんだと大声で叫びたい。だが証拠はなく、森田は濡れ衣で打ち据えられて終わりだろう。

「ここから幾ら取った? 100リラか? 300リラか?」

「…………………ってねぇ…」

「ああ? 聞こえねぇぞ!」

「取ってねぇって言ってんだよ!」

 だがここにきて、森田の反骨精神が出た。
 何も言わずに数時間耐えれば、気がすむまで殴られて飯抜きだけで済んだだろう。
 けれど、どうにも我慢ができなかったのだ。よく判らないことで息子に水をかけられ、やってもいない窃盗で濡れ衣を着せられる。

 最初は父親の薬代の為だったはずだ。
 母も小さい頃に亡くしてしまった森田の、最後の寄り辺が倒れてしまったあの時、森田は岐路に立たされていた。
 貧しい町だった。だから父親を見殺しにしたとしても、誰も森田を責めようとしなかっただろう。
 けれど森田はできなかった。父親を見殺しにすることなど。
 だから20リラと言う僅かな金で売買屋に買われたとしても文句すら言わなかった。結果として父親が助からなかったとは言え、その決断を後悔してはいない。
 人を、身内を見殺しにすることで自分が生きながらえたとしても、その生は腐っているのだ。

「馬鹿がっ!」

 けれど、振り上げられた拳は森田の上には落ちてこなかった。

「……?」

 衝撃に構えて目を瞑っていた森田が薄目を開けると、そこには二人の男が居た。
 一人は言うまでもなく親方だ。拳を振り上げたままで固まっている。
 そしてもう一人。親方の拳は自分で止めたものではなく、この人に押さえつけられたせいであったらしい。見た目はまるで何処かの紳士だ。
 力を入れていない訳ではないだろうが、親方よりも細身であると言うのに、男に握られた腕はいつまで経っても下されない。力が拮抗していることを教えるようにぷるぷると震えるだけだ。

「困りますな…勝手に傷をつけられるのは…」

「こ、これは躾だっ…!」

「そうは見えませんでしたが…?」

 男がパッと手を離せば、どれだけの力が込められていたのか、親方は己の腕に引っ張られるようにたたらを踏む。それとは対照的に男は澄ましたままだ。
 敵わない、森田は思う。自分も、親方も。この人には逆らうことができない。

「話を通してから今日まで。随分な扱いをしてくれたモンですな」

「違う! わしは、こいつを大切にだな…」

「ほう。大切、ね…」

 男の目は濡れたベッドしかない檻の中を走り、最後にズボンしか身につけていない森田に移った。
 それから視線は再び親方へと戻る。

「衛生管理もできていないようですが。これでは渡した1万リラを返して貰った方がいいかもしれませんな…」

「あ、あれは…わしが貰ったもんだ!」

「返さない、と? 85リラでそこの青年を買った貴方ならば、この1万リラが何を意味するのかは判ると思うのですがね…」

 ひぃ、と親方の喉が鳴る。
 男の目は鷹のように鋭く、森田からは余りよく見えなかったが、冷たい光に輝いていた。

「どうせ1万リラなんて疾うになくなっているのでしょうな」

 こくこくと親方が壊れたマリオネットのように頷く。

「ならばここにもう一万リラある。これでここの青年を私が買い取る。これ以上の譲歩は…」

 そうして無造作に床に放られた1万リラ。
 何をすべきか判っているだろうと、よく切れるナイフのように研がれた視線を投げかけられ、親方は最早頷くことしかできなくなったようだった。
 親方は札束がまるで誰かに奪われるとでも言うかのように拾い、これ以上男と1秒でも一緒の空間に居たくないということを隠しもせず、森田にサッサと出て行けと顎で示す。
 親方は森田を最早小間使いとは思わず、疫病神か何かだとでも思っているのだろう。短い間だったが、わかりやすい表情からはそれがよく判る。

「お前、荷物は…?」

 親方に促されるままに男の横に立てば、男にかけられる疑問。
 しかし、森田には言う台詞が決まっていた。

「俺には、もう自分の持ち物なんてないですから」

 唯一あるとすれば、幸雄に貰ったスカーフくらいだ。
 煤で肺をやられないようにと、働いた金をはたいて森田に買ってくれたものだ。表向きは『黒い兄弟』への歓迎プレゼントだと言って。
 決して高くはないが、森田にとってはこれだけが自分のものと呼べる宝物だった。

「なら、行くか…森田」

 森田は、何処へ、とは聞かなかった。

 どうして森田の名前を知っているのか。何故自分に固執するのか。そんな些細な疑問すら、森田を見て柔らかく笑む男の前では簡単に吹き飛んだ。
 何を聞かなくても判る。目の前の人間は、暗い穴蔵の底から森田を連れ出してくれるだろう。まだ母と父が居た頃から外れたことのない森田の直感だ。
 上に何も着ていない森田を想ったのだろう、ふわりとかけられた男の上着からはいい匂いがした。

「俺が、お前に世界を見せてやる」

 置いてきたジャケットに突っ込んだ羽を思い出したが、自分にはもう必要ないだろう。
 森田ははいと一つ返事を返し、大きな背中を追って小さな世界を飛び出した。


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『ロミオの青い空』のパロ。だが原作アニメの欠片が何処にもない件。財布の話も若干違います。そもそもアンジェレッタが居ない。
続きは書くつもりは無いので、以下裏話的なもの。

銀王は森田の父親と親交があったのですが、死に目には会えず。銀王が居たのはミラノ、森田が居た村は小さくて交通も不便だったためです。
そして銀王の所にその知らせが来る前に森田は自分を売り、そして銀王はその町に行っていたが為に擦れ違いとなって森田を買い逃していました。
森田は小さい頃に銀王と会っています。それをかすかに覚えていたので、銀王にホイホイ着いていったのです。
銀王と森田はここから始まり、イタリアと言う牙城を撃つのだと思います。
幸雄は急に姿を見なくなった森田を追いかけ、類稀な才能を生かして煙突掃除夫から脱却、森田を追います。
幸雄がアルフレドの位置で煙突掃除をしている限り、肺結核という死亡フラグが待ってるので、そこは変えさせて下さい流石に…
そして地味に西条→森田です。でも森田に伝わる前に歪みすぎて届いてませんでした。

『ロミオの青い空』は何度見ても泣く。