第一走者→おこさん
世も末。
21世紀にもなったというのに魔の類は宵闇に跳梁跋扈することをやめないでいる。
科学技術が進歩したせいで、人類は己の背後を這いずり回る薄ら寒い影を好き勝手に無視するようにはなったが、彼らの方はそんな人間の野放図なやり方に腹の一つや二つを立てずにはいられない。妖などと呼ばれる類の存在は、今日も古来と変わらず大手を振って往来を闊歩していた。
妖の中にも、人と同じく粋や無粋を解さない者が一握りでは足りない程度に存在している。
互いに不干渉であるという原則を破って人間社会の隅を千切っては啜る無法者、それらを懲らしめる存在が必要なのは今も昔も同じこと。世界の潮流の為軽んじられるようにはなったが、かといって全くの不要者扱いされるような世の中には決してならない。
この男、森田鉄雄もそういった世界の隅を荒らして回る無頼を取っちめては闇に返す稼業に就いている。
家業とは言ったが彼はまだ修行の身。とある陰陽道大家の傍流、ささやかな分家の一つを担ってはいるものの、その当主となってまだ日は浅く、先代の教えを骨の内に叩き込むところまで辿り着いていないような未熟者であることは否めない。
しかし荒削りではあるものの傑出した才能というのも輝き始めてはいるようで、本家は森田の才を買って、それを磨く場を与えた。
森田は今、ロンドンにいる。
その身分は一介の留学生。このアパルトマンを借りる時に提出した身分証は、確かに近隣の大学への留学者のために発行されたものである。その裏、一見すれば単純な注意書き――紛失した場合は速やかに再発行を行うこと、などと書かれている――とバーコードのみが書かれているプラスチックの表面を、一度彼の魔力を帯びた指先がなぞるだけで新しい表記が生まれると、それを知っているものは恐らくこのアパルトマンの中には森田の他には居ないだろう。
王立魔呪術研究大学。
その第二研究学部に森田はその身を置いている。授業はその殆どが英語で行われている他、独特な魔術言語を用いて行われる為最初の内こそ苦労したが、その甲斐もあり今では英語も魔術言語も思う通りに扱うことが出来るようになった。
日本の陰陽家からの研究生と言うのもそう珍しくはないらしく、黒髪や黄色い肌をからかわれる様な面倒もなかった。
ある程度親しい友人も出来たし、演習において師事を仰ぐ教授が少しばかり気難し屋であることを除けばそこそこに楽しい大学生活を送っている。
そして今日、与えられた最大の課題を片付けてしまうべく、森田はアパルトマンの屋上へとやってきた。
気難しい教授が今回提示した課題は召喚。Dクラス以上の悪魔、ないし精霊を呼び出して契約を結んでみろとのこと。
レポートには己の描いた召喚陣や、契約を結ぶまでの交渉の内容、契約の内容などを示すことなど、多くの制約も設けられている。
陰陽道を基礎とする森田、その専攻でもある召喚術である。今回もそつなくこなしてしまえるだろうという、微かな自身があった。
深夜。
風は強く、ダウンジャケットを羽織った上からでも寒さが身に染みた。森田はダウンのジッパーを首元までしっかりと上げて、それから屋上のざらついたコンクリートタイルに召喚陣を描き始める。
がりがりと音を立てて、白や黄色のチョークは見る間に短くなって消えていく。白を五本、黄色を三本半、赤を二本ほど消費した辺りで一旦手を休める。脇に置いていた魔道書、リボンの栞で止められていたページを開いて、描かれている陣と己の書き記した陣を見比べてみた。
しまった、そこはTではなくてYであった。
森田が己の手違いを改めようと手を伸ばした折、一本のチョークが手から滑り落ちる。落ちたチョークはかつんと乾いた音を立てて召喚陣に新しい線を一本だけ増やした。
また修正する箇所が増えてしまったと苦笑混じりにチョークへ手を伸ばした森田。
不意にその手が動かなくなる。
森田は、何が起きたのか分からないまま、目線を上げて陣を見遣った。
未完成であるはずの陣が、風を伴って大きく哭いている。
森田が手に取ろうとしたチョークが起き上がり、微かに途切れていた陣の外円をなぞる。その後チョークは微かな破裂音を立てて中空に散った。
それと時を同じくして屋上の空気が震え始める。
錆び付いたフェンスが不愉快な金属音を上げるのを耳を塞いでやり過ごそうとするが、生憎その両腕は何かに掴まれたように森田の言うことを聞かないでいる。
術の組み立てを誤り、腕を奪われたか。そう考えて術の源を探ろうと、小さく呪詛を呟いてポケットから小さな式を出す。しかし現れた式は森田の命を得る前に、その身の内から火を生じて焼け消えた。
式返しに遭った森田は右手の指先にほんの些細な擦過傷を受ける。爪先から小さく滲んだ血が、陣の描かれたコンクリートタイルに染み込むのが見えた。
チョークの持つ独特な白っぽさの目立つ陣は、途端に蠢き赤黒い光を放ち始める。
森田は本能的に、これはまずいことになったと察する。陣が完成してしまったのだ。
しかもその陣、魔道書に書かれていた悪魔とは、異なったものを呼び出そうとしている。
本来森田が呼び出そうとしていたものはいわば眷属、どれだけ高く見積もってもクラスはCが妥当といった辺り。
しかしこの大気の震えはどうだ。
森田はこれだけ力を持った風など、数える程度にしか浴びたことが無い。そのどれもが、己の師匠らが持てる最強の契約獣を、ここ一番の勝負の折に呼び出したときのものである。
森田自身がそれらを調伏しようなどとは、心にも思ったことがなかった。
脇に置いていた魔道書が、風を受けて次々にページを改めていく。捲られ続けたページは、とある部分でぴたりと、それこそ文鎮でも置かれたかのように動きを止めた。相変わらず風は大きく吹いているままだ、森田は強風に目を細めながら、開かれたページへと目線を向ける。
【A++クラス】
それを示す名は黒く塗り潰されている。一般に普及しているのと同じように、その魔道書も真名の書かれた部分は隠されていた。
名前は契約の鍵、それを知る者は契約を結ぶ者のみ。人間の側とあちら側、その両方が協議し同意した「ベネチアの大公約」以来、魔道書にはBクラス以上の召喚対象の名を全て伏せられた形で表記するようになった。
ロンドンを訪れて初めて学んだ闇社会のそんな歴史を、森田はぼんやりと思い返している。
明らかな意図を持って開かれたページ、その塗り潰しが徐々に引いて空白を生む。名前が明記されるべき箇所が全くの更地になった頃、今度は召喚陣に異変が走った。
ずるりずるりと、這いずる様な音を立てて、何かが現れている。
床はコンクリート、その下には何も知らない住人の住む部屋が広がっていよう。この世で通用する全ての物理的な法則を無視して、その暗い光は温く動きながら上下左右へ広がりを見せていく。人間が水から陸に上がるような、そんな散漫さが見受けられた。
その光は森田が見ている前で次第に視覚認知が可能な形態を取り始める。
なるほどこれがエーテルのアストラル変質か、などと思考を巡らせてみるのは、今この瞬間が明らかに危機であると知っているからだろう。
大抵の人間は窮地に立たされると現実逃避を試みるものだ、森田も一般的な脳と大差の無い作りの脳を持っていたようで、教科書はなかなか正しいことを書いていたのだなあなどと感嘆するばかりである。
その光、陣からその身を引き上げながら、次第に姿を剣へと変えていく。刀身は鈍く赤に輝いているのに、刃の部分は鋭く磨かれた銀色に冴え冴えときらめくばかりで。放つ気配の邪悪さに怯えるべき心は、森田の意思に反して酷く高鳴っていた。
醜悪で凶悪、呼吸をすることさえ躊躇うような緊張感を放つその剣、全身を陣から引き抜くと、ゆったりとした動作で中空に停滞する。
暗い星空の下で異様な昏さを放っていた剣は、存在しないはずの目で森田を見つめると、再び姿を変化させる。
一瞬の閃光。角膜を焼くような鋭さの後、森田の眼前には一人の男が立っていた。銀髪を立てた独特な髪型に、お世辞にも人好きがするとは言えない冷たい瞳。射抜くような視線が森田を見て、にたりと笑った。
「待ってたぜ、遅かったじゃねえか」
待っていた、とはどういった了見か。森田には皆目見当も付かない。男は片足の爪先でとんと地面を蹴って召喚陣を吸ってしまうと、大股に森田へと近付く。
森田の腕を掴むその腕の力は人間のものとは大きく掛け離れたもので、森田は抵抗することを思い付く間も無く引き起こされ、顔を男の目線の高さまで持ち上げられた。肩に無理な負荷が掛かりぎしりと鈍く痛んだが、それを憂慮している場合ではない。
森田は先程と同じく呪詛を吐いて小さな式を呼ぶが、その式は目の前の男の視線を受けて儚く霧散した。式返しを受けた森田、今度は頬に短く切り傷を受けた。
「お前、名前は?」
「知らない。少なくとも、あんたに言うような名前は無い」
こういった問いには答えてはならないと、講義の最中何度も教わった。召喚対象だけでなく、召喚主の名前も契約の鍵なのだ。それを奪われれば、一方的に契りを結ばされる羽目に陥る。
そうやって殺された術師は、この長い歴史の中でごまんといた。それこそニュースにもならないくらいの高確率で、全てを取って喰われてしまう。
森田のささやかな強気に、それでも男は気を良くしているようで。性質の悪い笑みをそのままに、森田の頬に滲む傷を舐めた。
「名前を言えと、言ったんだ」
見据える目がうっすらと赤く滲む。沈んだ色の光を見つめる内、思考が何故か遠のいていく。視界も靄が掛かったようにどこか淡く曇って見えた。脳髄を柔らかく揺する振動を感じる、それが現実のものか全くの錯覚なのか分からないまま、森田は薄く唇を開いた。
心地が良いと、そんな奇妙な感覚をうっすらと把握したその後である。
「て、つお、…森田、鉄、雄……」
それが魔眼の強制だと気付いた時には、既に己の舌先から名前が滑り落ちていた。後の祭りと理解しながら慌てて唇を噛んだ森田に、男は満足げな笑いで応じる。
「森田鉄雄、か。いい名だな」
途端、男の影が濃くなった。森田の影と同じ色をした足元、それは召喚対象が完全に還現されたことを示している。
どうやら森田の失態で、この世に「居付いて」しまったらしい。
名を奪われたものの末路は哀れだ。心臓ごと魂を奪われ、骨も残さず食される。死ぬだけで事が済めばまだいいと、そんなことを思う森田は男の目から視線を離せずにいた。
しかし件の男、再度森田の頬に唇を寄せ、耳元に囁いた。
「俺のことは、銀二とでも呼んでくれや」
先程までは確かに空白であった魔道書の一角。
再び目線を向けると、そこには掠れた文字が浮かんでいた。
****
どうやら例の――銀二などとふざけた名前で名乗った――悪魔は森田を大層気に入っていたらしく、彼の一方的な強引さでもっていつの間にか契約が取り交わされていた。
手が空いていたら相手をしてやるからいつでも好きに呼べ。などと、大悪魔にあるまじき発言だけを残してその日は消えてしまったが。
森田はシャツの隙間から己の胸を見た。胸の中央、鳩尾の辺りに銀二の残した契約印が残されている。なぞってみても凹凸は無いが、強い魔力で編み上げられたその紋章は、触れる度に指先をちりちりと焼いて燻るような熱を植え付けた。
あれ以来、森田からは銀二へコンタクトを取ることはしていない。レポートをまとめることで手一杯であったからだ。
銀二を呼び出した日は魔力の喪失でそのまま倒れ込むように眠ってしまったし、折角描いた召喚陣も記録を取る前に銀二に消されてしまったので書き直しになった。結局レポートの為に再度召喚を行い、森田の身の丈にあった眷属の類を呼び出したりと、今週は普段以上の忙しさだった。
しかもその銀二という大悪魔、どうも大分暇を持て余しているらしく呼んでもいないのにひょいひょいと現れては森田の日常を乱していく。
つい先程も、夕食時にふらりと現れたかと思えば、そのまま居座って共に食卓を囲むことを求められた。
どこから持ち出したのか、今銀二はグラスに注いだ食後酒を口にして、上機嫌で笑っている。森田はその姿をダイニングから眺め、溜め息を吐いた。
「銀さん、暇なんですか?」
「ん?どうしてそんなことを聞く」
「だって俺、呼んでもいないのに」
「固いこと言うなよ。俺はずっとお前を待っていたんだから、これくらいの勝手はいいじゃねえか」
何の事やら。相変わらず銀二は森田に必要以上を話そうとはせず、秘密めいたものをちらつかせるばかりである。
森田の探りたがるような気配を察してか、銀二はグラスに口を付け、それからごくさりげなく話題を提示した。
「そういえば、レポートとやらは終わったのか?」
「ああ、はい、なんとか。けど今度はまた別の課題が出されてしまって」
「大変そうだな。で、今度は何だ」
「魔力の抽出です」
「へえ、またいい趣味の課題じゃねえか」
喉の奥でクッと笑う銀二に、森田は苦笑を返す。それが皮肉であると知っているから、応えようもない。
魔力の抽出には二つパターンがある。単純に大気中のマナから精製する方法と、物体から引き抜く方法の内、今回は後者を求められていた。召喚術専攻の演習であるから、他の魔術師から盗むような真似は御法度である。
あくまでこの場合の物体とは、契約した召喚対象を指している。先立ってのレポートも、この課題へと続く布石だったらしい。
召喚対象の魔力を僅かばかり引き抜いて己の魔力と交わらせて現世に馴染ませ、それから瓶に封じる。
言葉にすれば単純であるが、魔力は酷く霧散しやすく出来ている。丁寧に丁重を重ねても、森田には酷く難しい課題であった。
「困った課題ばっかりで参りますよ。俺、不器用だし」
「なら、俺が手伝ってやろうか?」
「え?」
見るといつの間に引き寄せたのだろうか、銀二の手には課題に用いる瓶が握られている。コルクの栓などを手に取り見定めている仕草、森田は銀二を眺めながら全ての皿を濯ぎ終えると、濡れた手を簡単にタオルで拭き取って銀二の座るテーブルへと戻った。
対面に座り、瓶の返却を求めて手を差し出す。
「いいですよ、銀さんと俺じゃあ魔力の桁が違いすぎて馴染みませんから」
こないだ契約した奴でも呼びます、そんな事を続けた森田。茶を飲んで一服した後に、再度屋上へ上がろうかなどと、そんな事を考えたせいか微かに気を緩めてしまった。
銀二は森田の手を伸ばし、指先でその手のひらに自身の持つ紋章を記す。
「…?」
森田が銀二を見遣ると、そこには性質の悪い笑みが。
「いいですよ、ってのは、了承と取るぜ」
聞かされた言葉に、思考が暗転した。
しまった、この悪魔は、押し売りの類と似たような思考回路をしている。必要が無いと明確に告げなかった数秒前の自分、森田はそれを盛大に恨んだ。
第二走者→鳴海