リレー小説


第三走者→おこさん






その悪魔が森田の唇を奪おうとしたその刹那のこと。
皮膚と皮膚がまさに触れ合おうとする瞬間。森田は咄嗟に目を閉じてしまっていたため何が起きたか分からなかった。
耳に届いたのは盛大な破裂音である。と同時に、頭上では件の男が舌打ちをする。
恐る恐る森田が目を開けて見上げると、男は口元を押さえて睨むように己を見下ろしている。森田を見ている、というよりはまた別の気配。むしろ森田の体の一部、何かを探るように注意深く眼を使っているらしい。そういえば、少しばかり焦げ臭い匂いが鼻を掠めた気もする。
張り詰めた空気は相変わらずである、しかし男の端々には解れが見え隠れしていた。逃げ出すなら、今しかない。そんな思い込みだけで、森田は動いた。
式を乗せる人形。それをポケットから引き摺り出そうと、男の視界の外で手を働かせる。その動作の折、僅かに開いた襟元から薄く胸元が覗いた。それが結果的に男を助けることになったと、森田は全く気が付かない。指先で人形をつまみ上げようとした、丁度その時だった。

「見つけたぜ…」

明らかな笑みを含んで呟かれた言葉に、何故か背筋が寒くなった。男は森田のシャツを両手で掴むとそのまま左右に引き裂く。ボタンが幾つも弾け飛んで、幾つかは本棚の下に転がり込んでしまった。森田は己の企みが暴かれたとばかり考えて頭の中が真っ白になってしまった。それゆえ、その男が次に出る行動に気を払えなかったのだ。

「ご丁寧に。マーキングも済ませてるとはな」

シャツを裂いた手が今度は胸元に添えられる。再び、先程と同じく派手な破裂音が響いた。その音の源は、森田自身の体。男の指先が触れようとする度、森田の皮膚はそれを拒むかのように雷撃を走らせている。
男は焦げた指先を眺めて、また舌打ちをした。
驚いているのは森田だけらしい。無論この拒絶は、森田が自らの身体に掛けた魔法の類、というわけではない。己の身体に何が起きているのか、全く分からないでいた。
男は何やら呼吸を整えると、その鋭い眼を更に鋭利に細める。森田の視界の中で、男の片手が変形した。指先がちりちりと青い炎を纏っている。男は肘を上げて異形に作り変えた右手を持ち上げると、そのまま森田の胸、銀二の刻んだ紋章へと押し付けた。

「う、ぐ、っあああああ!!!」

己の胸元からは雷電が幾条にも渡って迸っている。その衝撃の程は定かでないが、男も確かに痛手を受けているのだろう。ほんの数秒前まで平然としていた顔が、僅かながら歪められている。森田にはその稲妻によるダメージこそないが、胸が酷く痛んでいる。焼けるような熱さも伴うその痛みは、胸に埋め込まれている鋭い指先が原因であった。

胸を、抉られている。

視界が明滅していた。激しく轟く雷によるものではなく、もっと意識的な深さを伴った感覚である。電撃に苛まれながらも、男の指先は森田の胸を探ることをやめない。
その爪がほんの微かに心臓をなぞる。その瞬間酷い吐き気と痛みを覚えて、反射的に森田はその身を仰け反らせた。反り返った喉からは悲鳴の崩れたような、そんな無様な声が零れるばかり。男は心臓の隣にある魔力の糸を指先に絡ませると、そこでようやく胸から手を引き抜いた。

「あ、あ、…っ…は……あ……」

一般の人間がその感覚を得るとしたら、喉の奥に無理に手を押し込んでそこを引っ掻き回す位の事をしなければいけないだろう。それくらいの不快感が、いまだに森田を捕らえている。心臓が掴まれているような錯覚があるから呼吸もままならない。ぜえぜえと喘ぐ森田の唇は、吐き出した己の唾液で濡れていた。

「ああくそ、切れねえな」

男はといえば、あれだけの雷光に打ち据えられた後だというのに飄々とした体は崩さないでいる。それどころか己の受けた痛みなどは端から眼中に無いようで、森田の胸から引っ張り出した糸との格闘に勤しんでいる。

「面倒くせえ。叩っ切っちまうぞ」

呟いて再度右手に炎を宿らせるが、その火は唐突に消えてしまう。再度試してみるが、結果は同じだった。不思議がる男は首を傾げながら辺りをついと見回す。丁度肩越しに背後を返り見たところ、本棚の足元に呪術封じの為に張られた結界を発見する。

「なるほど、なるほど」

魔道書というものには往々にして魔力がある。本来書物は書物でしかないが、魔道書は魔力を持っているため、大抵は単なる書物以上のものとして存在している。年月を経た書はもちろん、そうでない本でも魔道書であれば勝手に百鬼夜行染みた真似を始めてしまう。それを防ぐには、こういった仕掛けが必要なのだ。この図書館には、いわば図書館自体が魔力を喰らう生き物になる、という魔法が掛かっている。ある一定以上の魔力を消費し、術を生もうとした瞬間にその根源となる魔力を喰われてしまうのだ。
その対象は館内にいる全ての存在。つまりこの男もまた、そうして魔力を食われた、ということらしいが。それに気付いたのは当人だけで、森田は相変わらず整わない呼吸を繰り返すばかりである。

「ここじゃあ、ちぃと分が悪いってこったな」

森田自身、悪魔の類とかかわりを持ったことはそうあることではなかったが、ここ数回のやり取りの中で悪魔というものが面倒な手合いだと理解させられた。特に力が強くなればなるだけ、勝手が過ぎるということも学んだ。その理解が、今まさに深められようとしている。

「よし、じゃあ、お前の家にでも帰るか」

そう言って悪魔は森田を抱えると、森田ごと己の影に身を沈めていく。
好き勝手をするなと怒鳴り散らすことでもできればまだ胸が空いたかも知れないが、肝心のその胸、心臓は相変わらずその男の指先に絡んだ糸と繋がったままだから碌に言葉を発することも出来ない。
石で出来た冷たい床にずぶずぶと柔らかく沈み込んでいくのがこんなに不快だとは思わなかった。森田は眩暈を覚えながら縋るような思いで本棚を見遣る。

先刻飛び散ったボタンの一つと、目が合った。



****


こんなに心の晴れない帰宅は、子供の時分に悪戯をして家のガラスを割った時以来だと思った。あの時は叱られればそれで済んだからまだよかったが、今回はどうだ。どうもここ最近、自分の命は窮地に立たされ通しではないか。また心臓を取るの魂を取らないのなんて、そんな交渉事になるのは目に見えている。というかそもそも、交渉すら出来るか怪しいものだ。
森田を抱える男はやはり落ち着き払ったままで、ここが初めて上がりこむ他人の家だということすら忘れた様子で寛ぎきっている。
部屋の隅、ベッドの上に放り投げられると、相変わらず感覚を奪われたままの心臓がびくりと跳ねた。それがあまりにも不愉快で、咄嗟に森田は胸を押さえる。以前刻まれた紋章が、じりじりと熱を持ってのたうっていると、指先で触れて初めて知った。

「さて、それじゃあ本題だ。まずはその余計なモンを取っ払うぞ」

男は糸の絡みついた手をちらつかせて森田を見る。糸は魔力で編まれたものらしく光を受けてきらりと虹色に煌いた。その糸の先を視線で辿ると、件の紋章に行き着く。男の言う余計なものとは、恐らくこれだ。
森田自身、この紋章があろうとなかろうと問題は無いと思っている。というか、風呂に入るのも人目を忍ばなければならないから、この場合はむしろ奪ってもらった方が良いのかもしれない。しかし仕込んだのは悪魔、あの銀二である。紋章を奪われた時がそのまま己の絶命の瞬間になってしまうという可能性も捨てきれない。何が起こるかなど、分からないのだ。
流石に第三者(しかも相手は性質の悪い悪魔である)に紋章の解呪などをされては、それこそ身体が幾つあっても足りない事態になるのは目に見えている。
森田は図書館から手に握りこんだままの形代に、そっと呪詛を掛ける。薄く開いたままの窓から式が抜け出し、教授か学友の下へとこの異常事態を伝えてくれればそれでいい。不恰好にも程があるというのは分かっているが、それでも命は惜しかった。
そうして目の前の悪魔の死角、丁度背中の辺りに浮かび上がった式は、森田の視線を受ける最中に儚くも霧散した。

「なんだ、案外お前、悪戯が好きなんだな」

喉の奥に笑いを殺して、悪魔が呟く。森田の頬には一筋の傷が生まれていた。式返しである。微かな切り傷から、ほんのりと滲んだ血。それを男が細く伸ばした舌先で舐め取った瞬間、空気が変わった。
まず、先程あれだけ揮っていた雷、あれが一切姿を現さなくなった。
そして部屋に立ちこめる瘴気の濃さが、これまでの数倍に膨れ上がる。その濃度に、森田は一瞬呼吸を失い、淀みのあまり意識を手放しかけた。
部屋に伸びている男の影。それが図書館で見た時よりも濃い墨色に塗り潰されていることに気付いて、森田は飛びかけた思考を無理矢理引き戻した。
これは、おかしい。
今のこの男の存在感と先程までの気配、それを比べると、あまりにも歴然としている。
まるで先程までの男は、抜け殻に糸でも括って遠くから操っているような。それほどまでに強烈な闇の気配が、目の前に在る。

「どうした、兄ちゃん」
「あ、んた…」

濃度の高い瘴気の中では、呼吸どころか瞬きもままならない。術士といえど、身体は全くの人間である。しかもそれすらまだ途上である森田には、魔界の気配に対応することなど出来ないのだ。
先程の式返し。それで生まれた傷。そこから流れた血。それを得た男が発した、この重い空気。

「今までの、全…部…、ブラフ、だったのか」

喘ぎながら、森田は男を睨み付けてやった。陣も呼び水たる血液も無しに還現しきる悪魔など、そんなものの話は聞いたことがない。森田は頭が固い性質の人間ではないが、流石にこういった不測すぎる事態には慣れていない。媒体の話も、所詮は悪魔の口から出た話。頭から信じてしまっていた先刻までの己を悔やんでおくほか無い。と、そういったことを考えた訳だが。

「ブラフ?なんの事やら」

森田の意図を知っているのかいないのか。肩を竦めて笑う仕草が、また癇に障る。

「まあ、完全じゃなかったってところは、認めるさ。」

男は指先で糸をくるくると弄んでいる。その度心臓が思いきり足蹴にされたような、そんな激しい動悸に襲われ、部屋に満ちた瘴気と相俟って森田の思考を曇らせた。

「あいつがこっちに呼ばれた時点で、俺も半分はこっちに来てたんだ。お前の血が無きゃ、確かに固定はされなかっただろうが……」

男の右手が再び青い炎を灯した。指先が力を持って微かに震えているのが確認できる。その仕草から、男が遂に糸を焼き切る腹を決めたらしいと分かった。一際大きく心臓が跳ねる。
いけない、このままでは、心臓ごと全てを焼かれる。

「まあ、そんなことはどうでも」

男の言葉はそこで途切れた。中断せざるを得ない事態が起こったからだ。



男の首が、飛んだ。



男の頭から上だけが部屋の隅に飛んでいった後のこと。
森田の視界には一振りの剣が見えた。刀身の鈍い赤、切っ先は切り落としたばかりの男の身体から溢れた魔力が染み付いて、暗い金色に輝いている。時間を経る内にその金色はゆっくりと青みがかり、次第に大気へと融けていった。森田が目線を上げると、そこには首の無くなった男の身体が。その身体も剣に付着した魔力と同様に、時間を掛けて空気中に消えていく。
男の身体が消えた分、空間に空きが生まれる。そこでようやく、森田は剣の主を視界に収めた。
右腕の肘から下を剣に変質させている以外、全く普段通りの姿で、彼は立っていた。

「どうでもよかねえんだよ、俺は。…おい、大丈夫か?」
「ぎ、……銀さん…」

胸に紋章を刻んだ当人が、涼しい顔をして森田を見下ろしている。とはいえ何故か首元には薄く血が滲んでいたが、森田自身はそれを追求できるような状況には無かった。軽く片手を揺り動かして剣を仕舞い、元の指先を取り戻すと、その手でそのまま森田の胸元に触れた。先の男に引きずり出された魔力の末端を丁寧に心臓の隣へ戻すと、満足げな様子で一つだけ頷いてみせる。
訳が分からないのは森田だ。これまでの事が夢や幻の類とは到底思えない。なにしろ心臓はいまだに先程の衝撃に怯え、早鐘を打っているのだから。
一体何事なのかと、問い掛ける視線を向けると部屋の隅を指差された。促されるままそちらを見遣れば、全ての元凶となった本が一冊、無造作に床に落ちている。
図書館で見たときと全く同じ赤い表紙の本は、先刻そうであった通りどす黒い魔力を滴らせていた。森田の視線を得たその本は、誰の手を借りることも無く緩やかに表紙を開いた。
本が開かれた後、そこには先刻の男が立っている。足元にあるべき本は、すっかり雲隠してしまっていた。

「おお恐い。首が飛ぶなんて久々すぎて焦ったぜ」

言ってみせるが男の口調はやはり平素のものと変わらず、天気の話でもしているような暢気さで首元を押さえるばかりである。男の手は先程の異形から解き放たれたらしく、普段よく目にする人間らしい指先があるばかり。そのしっかりとした白い指が、首にうっすらと生まれた赤い線を何度も繰り返しなぞった。そうする内にその線は消えてしまい、今では男が先程首を落とされた事を察することなど出来ない程整った皮膚だけが残された。

「いい加減死んでくれよ。そろそろお前の相手するのも飽きてきたぜ」
「いいじゃねえか固いこと言うなよ。俺はお前と心中なんざ御免だからな」

銀二は片手の親指で床を示している。なるほど、悪魔と呼ばれる類の連中でも地獄に落ちろなんてご挨拶な事をのたまうのかと。森田はそんな奇妙な違和感を感じた。いまだ思考の定まらない森田を置き去りにしたまま、彼らの会話は進む。森田が思わず己の知らない言語を用いているのかと考えてしまうほど、掴みがたい話であった。

「ああくそ、お前なんかの首を飛ばしたせいで俺の首まで切れちまったじゃねえか」
「そういうのを自業自得って言うんだよ。」
「俺の契約主取って喰おうとした奴が自業自得だぁ?」
「誰が『お前の』契約主だって?そいつァあんまり話が違いすぎるだろうが」
「少なくとも、まだ、お前のじゃねえだろ」
「そりゃ残念。ついさっき正式に契ったところだぜ」
「え?」
「え?」

訳が分からないながらも、これ以上話がややこしくなっては堪らないとばかりに森田は声を上げる。しかしその疑問の声は同じく当惑した声を上げた銀二のそれと見事に被ってしまったが。
今確かに森田の耳にも届いたその単語、契約がどうのというのが空耳であることを心底願っている。その目の前に立つ銀二が酷くぎこちなく森田を振り返ったものだから、矢継ぎ早に問い質したい疑問を思わず飲み込んでしまった。

「森田、お前、こいつと、契約したのか…?」
「いや、知りませんよ俺!そんなの初耳で…」
「おいおい、兄ちゃんも術士の端くれだったらそんなに初心なこと言うんじゃねえよ」

例の男は何がおかしいのか、くつくつと肩を揺らして二人を眺めている。
銀二はその笑いの気配に苛立っているようで、眉間には深い皺が生じていた。片手で額を押さえて一度だけ深呼吸を洩らす、追って、今度は一つだけ溜め息を吐いた。

「まさかこっちでも有効なのかよ、あの呪い」
「らしいな。全く困ったもんだぜ」

困った素振りなど見せない男に対し、銀二は盛大な舌打ちを返す。それとほぼ同時に、魔力を行使して手の中に練り上げた銀色のナイフを、その男へと放っていた。
男はそのナイフを左手の甲で受け止める。さっくりと小気味良く刺さったナイフは、魔力ごと男に吸収されたらしかった。残されたのはただ一筋、左手の甲に生じた傷だけ。男は滴る血を気怠げに舐め取った。
目線を銀二に向けると、男と同様に左手の甲に一筋の傷を作っていた。

「えーと、」

森田は目の前の二悪魔と、己の置かれた状況を噛み砕こうと必死である。ああでもないこうでもないと思案を巡らせ、そうしてとある地点に辿り着いた。意を決して、訊ねてみる。


「すみませんけど、どういうことか説明してもらえませんか…」



****


「つまり、俺と銀二には共有の呪いがかかってるってことだ」
「共有?」
「ありとあらゆる有象無象を二人で分かち合えって、そういうお寒い話だよ」

ある程度の説明を受けたが、森田に理解できた部分はここに尽きる。
彼らの話を総じてまとめると、彼らには互いの所有する全ての物を共有しなければならない呪いが掛けられていて、銀二はその呪いから逃れる為に現世にを訪れた。しかし現世でも尚呪いの効力は続いていた為、契約主である森田も二人で折半しなければならない、と平たく言えばそういうことらしい。

「まあ、勿論食べ物だとか寝る場所だとか、代えの利くものは共有しなくて済むんだけどよ」
「契約は…なんだ、魂が関わってくるからな」

先の話の流れの中で散々聞かされて、森田も流石に覚えた。彼らは今、己の持つ最後の唯一になりえる魂すら、共有しているのだ。つまり銀二との契約は、それを結んだ時点でもう一方の彼――銀二を真似たのか、また赤木などというふざけた名前で名乗った――とも半分以上契りの交渉を済ませてしまったことになるらしい。そして先刻の血である。あれが駄目押しとなって、赤木を現世へと完全に呼び寄せてしまったようで。

「はぁ。そういう訳でしたか」

溜め息すら出ない。今森田の頭の中は、この面倒な悪魔二匹をどう言い負かして常世へ返そうかと、そればかりで一杯なのだ。交渉下手な己では無理かもしれないが、己の師事する教授ならあるいは、などと、そんな事を考えている。森田には大悪魔二人を養っていけるような魔力は無い。ものの1週間ももたず、骨と皮になるのは目に見えていた。

「おう。そういう訳だから、これからよろしく頼むぜ、兄ちゃんよ」
「え」

ソファを贅沢に独り占めして行儀の悪い座り方をする赤木、その発言に思わず森田は耳を疑った。赤木はいつの間に取り出したのか、ソーサーとセットになったティーカップで茶か何かを啜っている。無論森田の当惑は完全に無視しているらしい。

「えええ、だ、駄目ですってば、俺、無理、無理です!」
「何がだい。俺達を飼うのが?それとも俺達と寝るのが?」
「どっちもですよ!……って、寝…る…?」

肝心な部分を外して返される変化球な回答に飲まれきっている森田である、声を荒げてみても赤木の優位は変わらない。からかいなのかそうでないのかさえ分からないまま、のらくらとかわし続ける悪魔に対してどう出たものかと森田は悩むばかり。動じる己を楽しんでいるらしいということは見て取れるが、それを改めさせる手段がまるで無い。

「あれ?銀二とは寝たんだろ?」
「な、な…にを言うんですか……」
「大丈夫大丈夫、別にお前から魔力毟ろうなんて、そんな無体はしねえよ」

赤木は上機嫌な様子で笑っている。助けを求めようと銀二の方を見遣ってみるが、彼も彼でこの赤木が手に余っているらしい。森田と目を合わせてから再び赤木へと視線を向け、溜め息を吐くまでの一連の流れの中、その目は苛立ちと疲労感で酷く投げやりに見えた。

「ただ少し、食わせてくれればそれでいい」

さて面倒な事になった。赤木は茶を飲み終えた後のカップをソーサーごとテーブルへと放り、頬杖を付いて森田を見ている。にやにやと、気味の悪さを伴った薄笑いが背中に悪寒を走らせた。先に一度手を出してしまったという負い目の為だろうか、今回ばかりは銀二も口やかましくなれないでいる。
ここへ来てようやく、森田は真剣に己の身を案じ始めた。まだ見習いの域を出ないとはいえ、森田も術士の端くれである。(たとえ不慮の事故によるとはいえ)契約した悪魔に吸い尽くされて病院送りにされてしまうような目にだけは、決して遭いたくない。過日の銀二との件、あれで地獄を見たばかりである。そんな悪魔を二人も繋いでおこうなどと、冗談でも言えるような気分にはなれなかった。
自身との、ひいては銀二との契約に早くも辟易しているらしい森田を見て、僅かながら機嫌を損ねてしまったらしい赤木。片眉だけを吊り上げて、わざとらしく唸ってみせた。

「俺を呼んでおいてからに、そんなに残念がる術士見たことねえよ」
「呼んでませんから」
「そうだったかな?…まあともかく、俺が言うこと聞いてやろうなんて機会は滅多にないんだから、もう少し喜んでくれよ」

その言葉を受けて固まった森田の顔が、さぞ面白く見えたのだろう。それを一目見た赤木は、また先刻と同じく人を食ったような笑みを洩らした。

「どうせなら、お前が生きてる内に俺達の呪いを解いてくれや。そうしたら俺も心変わりして、契約解消なんてこともあるかもしれないぜ」

くらり。ふてぶてしいにも程があるその言葉に、森田は気が遠くなった。やはり悪魔と関わり合いになどなるものではないと、そんな事を痛感している。地味な術士と言われても構わないから、日本でひっそりと陰陽道のみを学んでいればよかった。今更だと言われようが、今の森田には後悔する事しか出来ないのだから仕方が無い。
泣き笑いに近い強張った笑顔を浮かべ、森田は明日を案じるばかり。明日まで身体が持てば、いの一番に教授の所に駆け込もう。必ず。間違いなく。絶対に。




銀二を呼び出してしまった際に手元にあった、あの魔道書。
本棚に納められたそれが、人知れず微かに光っている。ページで言えば銀二の頁の丁度隣。そこに描かれていた悪魔に関する項目の一番上、例の塗り潰された空白部分。それが薄らいで、新たに文字が現れていた。
森田がこの事に気付くのは、まだずっと先の事となるが。



第四走者→鳴海