お前は俺の鼓動だ


「準備できたか?」

「あー…と、タオル」

「置いてけば? 俺持ってるし」

「じゃあそうしよっかな」

 手に持っていた小さなタオルを洗濯籠の中へ戻し、着替えの入った鞄を肩にかければ準備完了だ。
 先に玄関で靴を履いていた同居人がドアを開けてくれている間に、かかとの折れたスニーカーをつっかけて外に出る。
 音鳴りの酷いスチール製のドアが悲鳴を上げながら閉まり、平山が鍵を閉めている横でつっかけただけの靴をきちんと履いた。

 向かうは銭湯だ。サクラギ荘は都心にあっても、家賃こそ安いが風呂が無い。夏はそうでもなくとも、冬は堪える。
 森田が使っている布団は夏冬共用の薄っぺらいもので、今まで何度羽毛布団を買おうと思ったかしれない。素寒貧だった頃は、デパートで値段を見ては諦めてきたのだ。
 けれど知らない間に平山が買って来た羽毛布団は、今まで過ごしてきたのか判らなくなるほどに温かくて気持ちがいい。
 それでも、風呂なしの寒い部屋を考えると、これからの冷え込みを想像するだけで憂鬱になる。

 部屋から一歩出れば、冷たい空気が森田の肌をちくちくと攻撃してきた。

「さむ…」

 錆び付いた階段をカンカンと耳障りな音を立てながら降りる。
 最近めっきり寒くなったせいで、足元からじわじわと熱が奪われてゆく気がする。

「…マフラー持ってくればよかったかもな」

「そんなに寒いか?」

「いや、俺じゃなくて」

 森田の鼻の先が少し赤くなっていた。首周りについているフェイクファーは、そこまでカバーできるような作りになっていない。
 それをさして平山は言ったのだが、森田は大丈夫、と答えた。

「俺よりも幸の方が寒そう」

 ジャケット姿の森田の横を歩く平山はかっちりとしたスーツ。傍から見れば、ゴロツキとチンピラと言った所だろうか。
 平山はこれから代打ちの仕事があるらしく、家に帰って着替える手間を省く為にそのまま着てきている。
 コートを着るには少々時期が早く、他に上に羽織るものが無かったせいだ。スーツの白色が更に視覚的にも寒さを煽る。開けた胸元も寒々しい。

「風邪引くなよ」

「引いたら鉄が看病してくれるんだろ?」

「…ここでしねぇって言ったらどうする?」

「風邪拗らせて死ぬのは嫌だ…」

 平山の言い方が余りにも嫌そうで、森田は思わず吹きだした。

「嘘だって。看るよ」

「じゃあ俺も鉄が風邪引いたら看病するかな。上から下まで抜かりなく」

「なんだそりゃ、下ネタかよ」

 カラカラと笑いながらアスファルトを蹴る。息を吐けば、白いふわふわとした塊になって藍色の空に消えていった。

「……あ」

「どうかした?」

「忘れ物。ワックスがないと髪の毛が…」

「取りに帰る? でもここまで来たし……珍しいよな、幸が忘れ物なんて」

「いや、今から取りに戻ってたら間に合わないから…」

 隣を見やれば、平山がしまったと言う顔をしている。
 あと三分も歩けば目的の銭湯がある。此処から家までは十五分と言うところだろうか。

 平山の手持ちは小さな鞄一つだけで、身嗜みには人一倍気を使い、持ち物もきっちりとしている彼にしては珍しい。

「俺の持ってくればよかったな」

「鉄はいいだろ。俺の不注意だよ」

 森田は帰りは銭湯で髪の毛を乾かし、括らず流して帰るからいつも使っている整髪剤も家だ。

「…他に忘れ物は? シャンプーとリンスは?」

「それは持って来てる…って、鉄?」

 平山が気付く前に、森田は踵を返そうとしていた。

「取りに帰ってくる。今からなら、幸が出るまでには戻ってこれるだろ」

 それを聞いた平山は一瞬ぽかんとした顔をして、家に戻ろうとしている森田の袖を慌てて掴んだ。

「別にいいから」

「そんな訳にはいかないだろ。仕事なんだから」

 森田は仕事に関してはとても真面目だ。それが平山の仕事でも同じ。どれだけ小さな仕事でも、手を抜くことは嫌なのだ。
 森田がそうなった理由を考えれば、手の届かない人を思い出して切なくなるが、その点では平山もプライドがあるから意見は同じ。
 代打ちという職が、本人その人よりも腕を見込まれている仕事なのは知っているが、だからといって気を抜いていいものではない。

「でも」

 だとしても、平山の不注意で忘れたワックスを取りに戻らせるのはどうだろう。森田にこれと言った用事が無いからと言っても、少々甘えすぎだと平山は思う。

「でもも何もないだろ。…なら代わり。仕事をバッチリ決めてきてくれるよな?」

 負けた代打ちがどうなるか。組に所属する者なら、それは酷い仕打ちをされると聞く。
 平山が雇われているのは小さい雀荘だけれど、これから先もそこで打ち続けるとは限らない。平山の才能ならどこから声がかかってもおかしくないし、本人が其処から抜け出したいと願っているなら尚更だ。
 今は負け知らずの平山だからこそ、気を抜いた時が怖い。

「…鉄?」

 考えていた事が顔に出ていたのだろうか。意識を別の所へ持っていかれていた間に、平山が森田の顔を覗き込んでいた。

「……なら、頼んでもいいか?」

「…おう」

 ……逆に、気を使わせてしまっていたらしい。
 本当はワックスなんてどうでもいいと思っているのだろう。平山は彼が思っているよりもずっと優しい。
 赤褐色のサングラスの奥の目が、森田を案ずる色に染まっている。

「今日は土産があったら貰って来るから」

「要らないって―――俺は幸がちゃんと帰ってきてくれたらそれでいいからさ」

 袖を掴んでいる平山の手を握れば、外気に長い間晒されいて冷たくなっていた。

「幸が、俺のところに戻ってきてくれるだけで、それだけでいいから」

「鉄」

「…んっ」

 平山が森田の体を包み込み、人目に判らないように掠めるような口付けをした。
 寒い冬の夜。周りに誰も居ないとは言え、慎重を期する平山とは思えない行動。
 けれど、その一瞬の暖かさが森田を現実に引き戻す。

「…俺は鉄の所にしか戻るつもりはない」

「ゆ、き」

「だから明日は二人で銭湯行こうな」

 森田の手を握り返す平山にこくりと頷いて、額を肩に預けるようにして寄りかかった。

 この温かさが愛しいと思うのは、おかしいだろうか。
 家に戻る寒さを思って、もう少しだけこの温もりに浸っていようと森田は少しだけ頬を緩めた。


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おかしいな、こういう話じゃ…本当は幸鉄で神田川がしたかったんだ…!
ちなみに『Mo Chúisle(uはアクサンテギュ)』はゲール語(古アイルランド語)で「モ・クシュラ」と読みます。