俺の名前を呼んでいいのはあの人だけだったけれど


「なぁ…名前、」

「なま、え?」

 森田が聞き返すと、数日前から家に住み着いた白髪の男はこくりと頷いてみせた。
 出会った時に着ていた勝負服のスーツは脱いで、シャツはそのままだが何処から持ち込んできたのかラフな格好をしている。お前の家はここじゃないだろうと言おうとして、それを許したのは自分だと思いなおす。

「俺の名前、知ってるんだろう」

 この男の名前。確かに教えてもらった。それも、男が森田にナンパモドキを仕掛けてきてすぐ。元が律儀なのか、家に入る前に名乗っていたはずだ。

「…………」

 けれど、と森田は思った。
 男の名前はどれだけ脳を浚っても出てこない。
 確かに告げられていたはずの名前は、森田の脳には刻まれていなかった。理由は簡単だ。

「いつまでそうやって避けるつもりなんだ」

「避けてなんかない」

 避けているだろう、もう一度男はそう言って森田の袖を掴んだ。止めろと言う声は喉の奥で潰れて消える。
 己が逃げていることなど、森田が一番よく知っている。
 男を家に上げた時、このまま殺されてもいいとどこかで思っていた。遥か高みに立っているあの人に僅かなりとも似ている男に葬られるならばと。
 ならば男の名前など何の価値もない。偽名だとしても構うものかと思っていたはずだ。

 だが、事は森田が思うほど単純ではなかったらしい。

「…忘れたならもう一度言ってやる。俺の名前は、平山幸雄だ」

 ひらやまゆきお、声に出さずに名前を口の中で反芻すると、ゆっくりと喉の奥で熔けていく。
 …聞いたことがある。恐らくは最初に男が名乗ったときだろう。そうしてこの男は名前まで僅かに似ているのかと思ったのだ。
 それから、あの人に似ている名前をも呼びたくなくて、自分は。

「なぁ、森田。俺の名前、呼んでくれ」




 『なぁ、森田』




 思い出すのは、あの人の。
 ひゅうと森田の喉が鳴り、一瞬の空白。そして。

「その名前で呼ぶな…っ!」

「か、はっ」

 気がつけば平山は部屋の壁に押し付けられていた。やったのは目の前の森田だ。アイロンがかけられた派手な色のシャツは、喉元を握られてぐしゃりと潰されている。

「その、名前だけは……」

 森田の瞳からぼろぼろと零れ落ちる。
 完全に思い出してしまう。姿を、声を、眼差しを。足を洗うと告げた自分に対して最後まで責めなかったあの人を。
 追いつけるものなら追いつきたかった。側に立って同じ景色を見てみたかった。及第点ではなく、100点を貰いたかった。
 それほどに温かかったのだ。あの人の側に居ることは。あの人のためならば、全てを犠牲にしてもいいと本気で思っていた。


 けれど、かの忌まわしい事件が何もかもをぶち壊した。


 自分が自分ではいられなくなってしまうと感じた。
 あの夜。確かに自分は穢されたのだ。目に見えない何かに。心を蝕まれてしまった。
 だからこそあの人の側にいることが辛くて自分は去ったのだ。綺麗なままの自分であの人の記憶にあれるように。

「ご、めん」

 頭を撫でられる感覚。あの人にされることは少なくて、でもされた時はとても嬉しかった。
 平山の手付きがあの人と被って、森田の手が僅かに緩む。
 自分も苦しいであろう、なのに森田を落ち着かせようと平山の右手は何度も往復し、残った左手で優しく襟元を掴む手を包んだ。

「………てつ」

「………………」

 頭に乗せられていた手は森田の背に下され、ゆっくりと引き寄せられる。森田はもう抵抗しなかった。
 広がるのは平山がつけている僅かな香水の匂い。ほんのりと甘くてけれどストイックな部分を残したムスクの、それが平山はあの人とは違うのだということを知らしめ、森田の目尻にじわりと熱が集まる。

「―――――ッ」

「鉄」

 そしてもう一度呼ばれて、森田の心臓がとくんと跳ねた。

 自分はこの優しい男を見捨てられるのか。
 …答えは否だ。

「―――………ゆき」

 そうして呼んでやった時のその顔が余りにも幸せそうで、森田は考えることを放棄して、取り敢えずは温かい体温に身を寄せて目を瞑った。